キブシは銀杏や山椒と同様に雌雄異株の落葉樹で、春に葉が伸びる前に淡黄色の花が、ブドウのようにつり下がって咲き良く目立つ。山地の日当たりに多く見られるが、花の時期以外は目立つ樹木ではない。また、キブシを漢字では木五倍子と書くが、知らないとキブシとは読めない。今では存在感の薄い灌木となっている。
だが、昔の人にとっては身近で重要な植物だった。お化粧で歯を黒く染めるための鉄漿(お歯黒)の材料として、庶民は高価なフシ(五倍子)の代わりにキブシの果実から採れるタンニンを使ったのである。フシとは、ヌルデの葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生すると、虫こぶ(ゴール、gall)ができるが、この虫こぶのことを五倍子(ゴバイシ、フシ)という。この虫こぶにはタンニン(渋)を多く含むので、乾燥・粉砕して粉にしたものと、酢を入れた水の中で鉄を錆びさせて出来た赤水とを混ぜると、化学反応で黒い染料(タンニン酸第二鉄)となる。これを歯に塗って、歯の化粧に使った。虫こぶは、どのヌルデの木でも見つかるものではなかったので、高価であり、タンニンを多く含み身近で採れるキブシの果実が、庶民のお歯黒の材料として使われるようになった。
この風習は、古墳から出土した人骨や埴輪でもお歯黒の跡が見られることから、かなり古い時代から明治の始めまで続いた風習で、外国人の眼には奇異で醜悪なものとして不評だった。そのためお歯黒禁止令まで出た。その途端虫歯や歯槽膿漏の患者が激増したので、禁止令は解除されたが、お歯黒を続ける人は少なくなり、この風習は次第に廃れ、キブシの木の存在感も薄れてしまった。
だがこの風習は、現代でも中国雲南省の少数民族であるミャオ族、ヤオ族、ベトナムのヌン族、タイのアカ族など、多くの部族に残っている。中尾佐助氏が指摘した『照葉樹林文化』の担い手である中国江南の人達などが、お歯黒の風習をも日本にもたらしたのだろうか?
4月 ニワトコ(接骨木) レンプクソウ科
筆者がニワトコという木を知ったのは、山菜について書かれた本だった。春に白い小さな花を咲かせる直前の蕾の姿は、ブロッコリーに酷似しており、それを天ぷらにして食べると美味しい(多食厳禁)こと、そして古い幹にはキクラゲがよくみられることを知った。玉川上水、千川上水の土手の大木の陰でひっそりと生えていて、蕾とキクラゲを時折採取しては味わった。ただそれだけの貧相な灌木でしかなかった。
ニワトコの名前の由来を調べてみると、語源はミヤツコギ(宮仕う木)で、神官(宮つ子)が、布など貴重品を神に捧げる時、その品を木に挟み神前に奉納する際に使う霊木であったようだ。古語が残る八丈島では、ミヤツコギが訛化してミヤトコと呼んでいる。
その後、ニワトコがアイヌでは神事の際に用いられ、病魔を避ける力があると見られ、魔よけに門前に立てられていることを知った。アイヌの人達にとって、アワやヒエが大切な主食の穀物であり、ニワトコが魔よけの霊木であった基層文化が、秩父、山梨、長野、群馬、伊豆地方に広がった御門棒(おっかどぼう)や、粟棒・稗棒(あーぼへーぼ)など、病魔を防ぎ豊作を願って小正月に門前に立てる飾り物の風習になっていることを知った。(千葉県の多くの地域でニワトコのことをアーボノキとかアーボと呼んでいる)。
更に驚いたことに、中央アジアの民族であったケルト人の文化としてニワトコ(エルダー)が、人間界と魔界を繋ぐ霊木であり、その基層文化が根強く西欧に残ることだ。特にヨーロッパの外れの島国であるアイルランドでは顕著。ケルト人は文字をもたず、巨石文化(ストーンヘンジ)が遺跡として有名だが、アイヌも文字を持たず、ニワトコを霊木として崇めているという、共通点が見られる。更に日本にも環状列石が秋田、青森、北海道で200弱も存在しているが、この環状列石が縄文人の文化なのか、アイヌなのか筆者は知らない。
だが、ニワトコは、隠れた魔力で世界を支配しているように思えてくる。日本の宝塚の歌劇で歌われる「スミレの花咲く頃」の歌は、フランスでの「白いリラが咲くとき」の替え歌であり、その元歌はドイツの「再び白いニワトコが咲いたら」である事実は、ニワトコが隠微な力を現代社会に対しても発揮しているように思えてくる。
4月 ヒトリシズカ(一人静) センリョウ科
森林の中で朝日があたる程度の湿った日陰を好んで生育する。花は光沢のある4枚の葉の真ん中から1本の白いブラシを突き出しているような素朴な形だが、人目につかず、ひっそりと、しかし、凛として品よく咲いている。1本の茎からは主として1本の花穂しかつけないが、株立ちする植物なので、多くの花が咲きそろって咲いている。それなのに、なぜ「一人静」という名前がついたのだろう。ヒトリシズカの旧名はマユハキソウ(眉掃草)であったようだ。それがヒトリシズカとなったのは、下記のような経緯からと思われる。
鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『吾妻鏡』では、義経の妾であった静御前の悲劇が記され、のちの室町時代になると世阿弥作と伝わる「二人静」の謡曲が有名となった。
則ち、源義経は、頼朝の追手から逃げるため京から奈良の吉野山に逃げた。義経に従った妾の静は吉野山で義経とはぐれ、頼朝軍に捕らえられ、鎌倉に引かれて厳しい取り調べを受けた。頼朝の前で舞を舞う命令を受けて舞うが、敵である頼朝の前で、義経への思慕を歌い舞う静の姿に、多くの人は同情し大きな感動を与えた。
そして室町時代の謡曲では、吉野山の勝手明神の神事に使う摘み草の菜摘女に静の霊がのり移り、菜摘女は神職の前で自分は静であると名乗った。神職は、では舞を見せよと言うと、菜摘女と、その背後に現れた静の霊とが一挙一頭足寸分違わぬ舞を舞うという内容で、この謡曲が有名となり、通常2本の花穂が立つツギネグサにフタリシズカの名が、1本の花穂が立つマユハキソウにヒトリシズカ名がついたのであろう。
筆者の経験では、フタリシズカは人里に近い山野の、日の当たる場所でよく見かけるが、ヒトリシズカには滅多に出会うことがない。そんなヒトリシズカの花言葉は、「静謐(せいひつ)」であり、「隠れた美」となっており、静御前の気持ちや生きざまを表象しているように思われる。
観察園だより4月20日号掲載
ハンカチノキ、オドリコソウ、ガマズミなど
4月 カリン(花梨) バラ科
江戸時代に中国から渡来した樹木で、和名にしては少し変わった響きのある名前なのは、フタバガキ科の花櫚(かりん、印度紫檀)に木目が似ているとみてつけられた名前であり、花梨は当て字である。
筆者が初めてカリンの名を知ったのは小学6年生の国語の教科書だった。宮沢賢治の『風の又三郎』の中で、「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ」の歌の一節でカリンの名前が出てきた。当時はどんな植物か気することもなかった。
それも道理で、カリンはナシやリンゴに近い仲間ではあるが、花は少な目で見栄えがせず、果実は固くて酸味が強く生食には不適だった。それゆえ、砂糖漬けや果実酒にして、咳や痰など喉の炎症を抑える家庭医薬として、旧い邸の広い庭の片隅にひっそりと植えられていた存在だったからである。
筆者が中年になったころ、谷村新司作詞作曲で柏原よしえが歌う「かりん かりん 実らぬ恋 時が過ぎても ただ香るだけ ・・いつになれば 白い薔薇になれるのかしら」という歌が流行った。可憐な少女の気持ちを歌ったのだと、当時は受け止めていた。
だが10年ほど前、女優の山口果林が『安部公房とわたし』と題した告白本を出版した。それによると大学生の時に俳優座に入団、安部公房に師事し、彼は彼女に「果林」の名をつけ、果林は彼の不倫相手となった。彼は妻と別居し果林は23年の間愛人関係を続けた。彼は妻とは離婚したが、彼がノーベル賞候補となったことから、結婚により不倫が世間に知れ渡ると受賞に悪影響を与えると考えられたため、結婚を引き延ばしているうちに、ガンで死亡したことが明らかとなった。
これが事実とすれば、谷村新司は不倫の事実を知っていて、いつまでもウエディングドレスが着られない果林の気持ちを、白い薔薇になれないと歌ったのかと思えてくる。この歌を聞いた山口果林の気持ちはどうだったのだろうと思いやる。暇人の勘繰りかなぁ。
4月 ハンカチノキ ミズキ科
4月 花が咲き終わった後のオキナグサ(翁草)
4月 シロヤマブキ(白山吹) バラ科
4月 クマガイソウ(熊谷草) ラン科
クマガイソウの名は、源平の一ノ谷の合戦で、平家の若武者である平敦盛(16歳)を捕らえて、首を撥ねた武蔵国熊谷郷出身の荒武者である熊谷直実の名からきている。
当時の戦いでは、武士は兜や鎧の背中に幅広の布(母衣、ほろ)を装着し、馬に乗り風を利用して膨らませ、背後からの弓矢を防いで戦ったが、その風船に似た母衣の形にクマガイソウの花の形が似ているところから名付けられた。
この頃の弓は丸木弓(1本の木材を削って弓にしたもの)が主流で、反発力が弱いため、間近で引いた矢でないと殺傷力はなく、兜と鎧の間に見える首筋を流れ矢から守るための防具が母衣であった。
クマガイソウは、そんな悲惨な歴史を背負って咲いているのは哀れであるが、熊谷直実は後に武者として多くの人を殺めてきたことを後悔し、自ら断髪して法然上人のもとで出家、蓮生という法名で、沢山のお寺などを創った。
現代人の筆者は、クマガイソウの風船を背負った姿は、母衣ではなく、悔しさ、哀しみなど諸々の思いや歴史を詰め込んだ背嚢(リュックサック)を胸に掛けて、静かに瞑想しているように見える。