12月 マンリョウ(万両) サクラソウ科

 インド~東アジアの温暖な地域に広く分布し、日本では関東地方以西~沖縄に自生し、庭園木の根際などによく植えられている。野鳥により種子散布されるほか、こぼれ種子でもよく繁殖する。観察園のマンリョウも植えたものではなく、園内のあちこちに実生が見られる。その繁殖力のためか、米国フロリダ州では外来有害植物とされ、駆除の対象となっており、豪州でも熱帯雨林の環境を破壊する環境植物とされている。

 一方、日本では、葉の緑は永遠の命、赤い実は幸せを表象し、そして「難」を「転」ずるので、ナンテン(南天→難転)が鎌倉時代あたりから、縁起のよい低木として庭に植えられるようになった。その流れで、江戸時代後期には冬でも葉が緑で赤い実をつけるセンリョウ(仙蓼)が、正月飾りに使われるようになり、「仙蓼」は「千両」と呼ばれるようになった。そして、センリョウよりも多く実が成る通称ヤマタチバナ(山橘)は「万両」と名付けられ、実がより少ないカラタチバナ(唐橘、サクラソウ科)は「百両」、順にヤブコウジは「十両」、アカモノ(ツツジ科)は「一両」、実が多いミヤマシキミ(深山樒、ミカン科)は「億両」と、言葉遊びのように名付けられた。のちにアカモノ(ツツジ科)に代わりアリドオシ(蟻通し、アカネ科)が一両と呼ばれるようになったが、これはセンリョウ、マンリョウ、アリドオシを一緒に植えることにより、千両、万両、有り通しに通じるとしての験担ぎのためである。

 徳川家康、秀忠、家光と三代続いて植物好きであった影響で、徳川時代は武士から平民まで、園芸熱が盛んになった。アサガオ、ナデシコ、キク、ツバキなど、多くの品種がうみだされた。1860~1861年に来日した植物学者でありプラントハンターのロバート・フォーチュンは、「日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が、人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っているとみえる」という言葉を著書『幕末日本探訪記―江戸と北京―』に残している。

 家康公はオモトが大好きで、日光東照宮にはオモトの木彫が31もある。その影響か、武士たちはオモト、カラタチバナ、マツバラン、セッコク、ミヤマウズラ、ツワブキなどの斑入り、矮小、異形葉など、突然変異により生じた異品を熱心に栽培し、高額で取引することがなされた。カラタチバナやマンリョウなどの異品は明治以降の戦争で絶えてしまったが、オモト、セッコクなどは古典植物として今でもその多くが残っている。

 こうした突然変異によって出現した「異品」の栽培は、徳川時代の次男坊・三男坊など家督を継げない下級武士にとっては慰めや小遣い稼ぎになっていたろう。拙宅でも狭くて日陰勝ちの庭には、ツワブキ、ヤブラン、ムサシアブミなどの、葉が真っ白な異品が植わっている。これらは、薄給サラリーマンで定年退職した筆者が手にするささやかな贅沢品であり、女房に内緒で福沢諭吉の紙幣と交換して手にしたもので、日々幼子をいたわるように愛培している。