クスノキは台湾、中国南東部、ベトナムといった暖地に自生し、それらの地域から日本に渡来した史前帰化植物と言われている。今では常緑高木のうちの1種類の樹木としか一般的には認識されていないが、明治時代は国運を左右する、大変重要な樹木であった。
クスノキから水蒸気蒸留で防虫・防黴剤として樟脳が採れることは知られていたが、1870年にアメリカのハイアット兄弟が、樟脳からセルロイドを作ることに成功した。成形自由な材料なので、食器、ナイフの柄、万年筆、眼鏡フレーム、映画フィルムなどの材料として19世紀後半の工業製品に一大変革をおこし、膨大な需要が生じた。
日清戦争後、1895年から台湾を領有した日本政府は、台湾に茂るクスノキを用いた樟脳の生産販売の専売制度を敷いた。世界の樟脳生産の80%を占め、政府の大きな財源となった。しかし三国干渉により日露戦争が不可避となったので、バルチック艦隊に対抗するため、最新鋭の戦艦12隻を一度に英国などに発注し、ロシアに戦勝した。その戦費は英国と米国からの借入金であったが、樟脳という担保の裏付けがあったから出来たことである。
そして、第一次世界大戦の頃には、西欧に沢山自生するモミやトウヒなどのマツ科植物からとれる「松ヤニ」から、プラスチックを製造する技術が発明され、第二次世界大戦の頃には、石油からプラスチックを合成する技術が発明された(ゆえにプラスチックの日本語は「合成樹脂」となっている)。これらの技術により、セルロイド・樟脳の需要は激減し、国難を救ったクスノキの価値も忘れられていった。
しかし、明治神宮の参拝殿の左右に植栽されているご神木は、クスノキであり、日本各地に残る日露戦争記念樹もまたクスノキである。JR青梅駅の近くにある永山公園には、日露戦争で戦死された兵士の魂を祀る「忠魂碑」があるが、そのすぐ後ろには、クスノキがなぜ自分がここに植えられたか、何も語らず、シレっとした姿で、現代の風に葉を揺らして我々を眺めている。
10月 エノキ(榎) アサ科
エノキ アサ科
北海道を除く日本全国の里地・里山に自生する落葉高木で、身近の山野でよく見られる樹木である。以前は近縁のムクノキとともに、ニレ科に分類されていたが、現在ではアサ科に分類されている。
秋に橙褐色の果実がなり、ほんのり甘い。登呂遺跡からは種子が多量にでてきたので、古代人は食料にしていた可能性もある。近代においても砂糖が貴重であった時期は、子供達が口にして甘さを楽しんだ。同様に、野鳥の好物となっており、多くの野鳥が果実を啄みに訪れる。またエノキの葉は、ゴマダラチョウ、テングチョウ、ヒオドシチョウ、葉と材は、法隆寺の玉虫厨子で有名なタマムシなど、多くの昆虫類のエサとなっており、特に日本の国蝶であるオオムラサキの食樹としてよく知られている。そして、各地の多くの神社でご神木となっている。
このように極めて身近な樹木であれば、地方名が多数あるのが一般的であるが、奇妙なことに、エノキは、地方独特の地方名がなく、日本全国で「エ」がつくか、または「エ」音が転訛したと思われる「ヨ」、「ユ」がつく地方名になっている。『日本植物方言集成』八坂書房によれば、「エノミ(青森、岩手、仙台、新潟、静岡、山口、大分)」、「エノミキ(八丈島、宮城、佐渡、長野、三重、高知、八女、熊本)」、「エノンノキ(出雲)」、あるいは「ユノキ(富山)」、「ユノミノキ(長野)」、「ヨノキ(岐阜、志賀、和歌山、鳥取、愛媛)」といった具合である。従って、エノキは「エの木」が語源であろうと筆者は考える。なぜ、全国的にこの名前が広がったのか、何かの意味をもつ、特別の木であったのだろう。
エノキの漢字は日本では「榎」であるが、中国では「朴」であり、占うという意味がある。「榎」は日本で作られた国字である。近縁のムクノキは「椋」であるが、訓読みでは「クラ」とも読み、古語では「クラ」は「拠り所」の意味をもつ。
筆者は、このことから、エノキもムクノキも中国・朝鮮では霊木的な存在であり、その思想が日本にも伝わり、神の居場所・神の依(よ)り所として崇められ、「依(エ)の木」と呼ばれたことが始原であろうと考える。それゆえ、村落の境界には道祖神が祀られ、エノキが植えられた。東海道の一里塚にも、旅人を守る樹木としてエノキが植えられた・・・と考えたい。多くの神社のご神木となっているのも、そのためだろう。
9月 オミナエシ(女郎花) オミナエシ科
オミナエシは、沖縄を除く日本全土および中国~東シベリアにかけて分布している。日当たりのよい肥沃な草原に生育し、夏から秋にかけ、地表に広がる根生葉から1mほどの長い花茎をのばし、その先端に黄色い小花を平らな散房状に多数咲かせる。咲いているのが1株だけだとさほど目立つ花ではないが、多くの株がまとまって開花していると、光沢のある黄色い小花が秋の陽に輝いて美しい。
しかし、秋の七草の一つとして、日本では古くから親しまれている草原植物であるにもかかわらず、オミナエシの名前の由来が明確ではない。牧野富太郎は、同属でよく似ていて白花のオトコエシ(男郎花)に対応して、優しい感じがするところからオミナエシ(女郎花)と名付けられたとし、「エシ」の意味は不明と素っ気ない説明をしている。
このことから、「エシ」は「圧し(へし)」が変化したものであり、花の美しさは美女を圧倒する意味だとする説がある。だとすれば、地味な白花にオトコエシの名をつけるのは、筋が通らない。
筆者はオミナエシはオミナメシ、オトコエシはオトコメシが変化したものと考える。則ち、中国の本草書ではオミナエシもオトコエシも「敗醤(はいしょう)」と呼ぶ。この属の植物が、腐った(敗)醤(ひしお)のような異臭を持つことからである。日本現存最古の薬物辞典(本草書)である深江輔仁著『本草和名』延喜18(918)年は、敗醬の和名はチメクサと記している。一方、和歌を詠む上流階級の人達は、敗醤では和歌にふさわしくないと見て、女郎花の漢字をあてたのではないか。だが、一般の農民などはチメクサのほか、分かりやすい名前として、オミナエシをボン(盆)バナ、アワ(粟)バナ、オミナメシ(女郎飯)、オトコエシをオトコメシ(男飯)と呼んでいたようだ。筆者はオミナメシ、オトコメシが変化してオミナエシ、オトコエシとなったと考える。 則ち、女性は黄色い粟の飯を食べ、農作業の労働の代償として、男性は白い米の飯を食べたということではないか。これ以上書くと、男尊女卑の思想ではないかと非難されそうなので、ここでやめておこう。
9月 ショウキズイセン(鍾馗水仙) ヒガンバナ科
9月 ナツズイセン(夏水仙) ヒガンバナ科
古代に中国から渡来した帰化植物で、本州~九州の人里近くの山野、草地、道端などに自生する球根植物。ヒガンバナの仲間だが、葉の形が、より幅広のスイセンの葉に似ており、夏に花を咲かせることからの名前。
早春に葉を出し、夏前に葉は枯れ、真夏になると花径を伸ばし、先端に数輪のピンク色の花をつける。リコリス・スプレンゲリ(Lycolis sprengeri、ムラサキキツネノカミソリ)によく似た花だが、ナツズイセンはピンク一色に対し、スプレンゲリはピンクの花弁の先端が青色を帯びることで識別できる。それもそのはず、ナツズイセンはL. sprengeri とL.Incarnata (タヌキのカミソリ)あるいはリコリス・ストラミネア(L.straminea)との自然交配種と見られている。
土葬が一般的な時代は、ネズミその他の獣による墓荒らしを防ぐため、球根が有毒なヒガンバナなどLycolis 類が墓周辺に植えられた。それゆえ好まれる花ではなかった。しかし欧米では人気があり、交配により色々な品種が生まれている。そのためか、火葬が一般的になったためか、日本でも人気が出始めた。