7月 バショウ(芭蕉) バショウ科

 バショウもバナナも、バショウ科バショウ属の草本植物で、バショウ属の植物には、約40~50種があり、世界の熱帯を中心に分布している。現在日本では、食用となるバショウ属の植物をバナナと呼び、食用に不適なものをバショウと呼んでいる。西欧ではバショウ属の植物を一様に英名でBananaと呼んでいるので、日本のバショウの英名は、Japanese Bananaとなっている。これはシーボルトが長崎に来て、見つけたバショウを日本原産の植物として世界に紹介した経緯があるからだ。

 バショウ(学名Musa basjoo)はバショウ属の中で、もっとも耐寒性に富み、中国の亜熱帯~暖帯を原産とし、北緯30度前後が分布の南限と言われている。関東地方以南では露地植えでも栽培可能。およそ1000年程前に日本に渡来したようだ。漢名の芭蕉(bajiao)の発音から、平安時代は「発勢乎波(はせおは)」、江戸時代には「ハセヲハ、バセヲ」などと呼ばれる観葉植物であった。因みにバナナは淡赤紫の花(苞)をつけるが、バショウの花(苞)は黄色であるので見分けがつく。

 松尾芭蕉の最初の俳号は「宗房」で、30歳を過ぎてから、憧れていた中国詩人の李白(りはく、スモモ、しろ)になぞらえて桃青(とうせい、モモ、あお)と号し、37歳(貞享3年1680)に深川六間堀に草庵を営んだ。翌年に門人からバショウ一株を送られ、庭に茂ったバショウが気に入って、草庵を芭蕉庵と称し、俳号を芭蕉(はせを)としたというのが一般的な解釈となっている。しかし、それ以前の天和3年(1863)から芭蕉と号していた事実があり、バショウに対する特別な思いがあったのに違いない。

 当時の俳諧では、言語遊戯性や滑稽諧謔な作風の談林派と呼ばれる俳諧が流行していたが、そうした流行から離れ、静寂で孤独な生活を克服し、枯淡の境地を求めて芭蕉と号したのではないだろうか。日本庭園では異端的な草姿の観葉植物であるバショウは、冬には枯れ朽ちるが、春には再び芽を出し大きな葉を伸ばして健やかに成長する。風雨に晒されて葉は破れボロボロになるが、そのことを意に介せず新しい大きな葉を伸ばす。そのようなバショウの生き様が、彼の感性に訴えるものがあったのではないかと、凡人たる筆者は想像するのである。

7月 セイヨウニンジンボク(西洋人参木)シソ科

 セイヨウニンジンボクという名前を聞いても、ニンジン(人参、Carrot )はセリ科の草本であり、そもそもニンジンは日本原産の植物ではない。それなのに、西洋の名をつけた人参で樹木とは、どのような樹木なのか、まったく想像できない。

 まず、ニンジンボクという植物は、海岸に生えるハマゴウに近い植物で、スミレ色の花を穂状につける落葉低木である。葉がウコギ科のコウライニンジン(高麗人参、お種人参)に似た掌状複葉で、感冒の薬など薬用によく使われたので、ニンジンボクの名がついたのだろう。ニンジンボクは中国原産で、日本には江戸時代中期の享保年間に薬用として渡来し、幕府の御薬園に植えられたが、花はハマゴウに似て地味であるためか、一般にはあまり普及しなかった。

 その後、明治時代に同じ仲間で地中海沿岸が原産の、より花が華やかなセイヨウニンジンボクが渡来し、洋風庭園に植えられるようになった。けれども、一般家庭には普及せず、未だに馴染みのない植物のままだ。なぜだろう。

 セイヨウニンジンボクは生育旺盛で、毎年長い枝を四方に伸ばし樹高は3mほどになる。涼し気な青い花が枝一杯に咲く姿は、狭い一般家庭の庭では樹勢を持て余し、広い洋風庭園でこそ、その美しい花と自然樹形のよさが発揮されるからではないか。

 日本では夏に咲く花は少ないが、この花は暑い夏の7月~9月にかけて咲き続けるので、チョウやハチなど多くの昆虫が吸蜜に訪れる。観察園を生きものにあふれ、精気に満ちた場所として保持するには、セイヨウニンジンボクは大変貴重な植物となっている。

6月 ミソハギ(禊萩)ミソハギ科

 日本、朝鮮半島に分布し、湿地や田の畔、用水路の縁などに生え、草丈50㎝~1mになる多年草。お盆の頃に紅紫色で6弁の小さい花を先端部の葉脇に多数つける。

 名前の由来は、お盆の迎え火を焚く前に、この花で周囲に水を撒く風習からのようだ。そのため、ボンバナ(盆花)、ショウリョウバナ(精霊花)などの別名もある。すなわち、みそぎ(禊)に使用する萩に似た花であることから、みそぎ萩がミソハギとなったもので、溝などの湿地に咲くところからミソハギ(溝萩)の名がついたという解釈は間違いと思う。

 ではなぜミソハギを、精霊を迎えるための花として使ったのだろう。思うに、洋花が日本に渡来する以前の古い時代には、春に咲く花は多くても、お盆の頃に咲く日本原産の身近な花は、極めて少なかったという自然現象の現実的な理由からではなかろうか。お盆の時期に合わせたように咲いてくれるくミソハギは、祖先を迎える格好の花だったのだ。花言葉は「愛の哀しみ」であり、お盆に献花する花として、亡くなった人を偲ぶ気持ちを表している。

 田の畔や用水路などで旺盛に生育するミソハギは、葉を茹でて和え物や佃煮にして食べることもでき、花は生でも食べられ、花が終わるころに草全体を採取し乾燥させたものは、煎じて下痢止めにも効果があった。身近にあって極めて便利な植物であり、特別視された存在であっただろう。

6月 マツムシソウ(松虫草)マツムシソウ科

 筆者は毎年9月下旬~10月上旬に、長野県川上村方面にキノコ観察に出かけている。ここは花崗岩が風化して出来た真砂土の土地なので、貧栄養の土壌で水分保持力が低い。そして標高が1,000mを超える高冷地なため、農業に不向きで、昔はオオカミの血を引く「川上犬」を使っての狩猟で生計を立てていた土地だ(現在はレタス栽培で裕福な村となっている)。そのような高原で車をとめて辺りの草叢を見回すと、草丈の低い割には花径4㎝前後の大きな花をつけるマツムシソウが目に飛び込んでくる。

 草丈は土地柄のせいか30~50㎝と低く、葉も羽根状に細く切れ込んだ葉で存在感が薄い。他の草が茂る中から長い花径を伸ばし、淡青紫色の華奢で儚げな花をひっそりと咲かせる。花の中心は頭状花が円形に集まり、その外側に3裂した比較的大きな花弁が取り巻き、襟元を飾るフリルの役をなしている。上品な風情の花で派手さはないものの、何かヒトの気を引く雰囲気を持っている。

 名前もマツムシソウという風雅な名前だが、これは秋にマツムシが鳴くころに咲くからという説が一般的だ。しかし、秋鳴く虫にはスズムシ、クサヒバリ、キリギリスなど多数あるのに、なぜ、マツムシを取り上げたのか、どうにも納得できない。

 老齢となり意固地なところが出てきた筆者は、なぜかを調べてみた。どうも楽器の音に関係するような気がする。巡礼がお経を読むときに使うものを「持鈴(じれい)」と呼び、鐘に取っ手がついていて、持鈴を振って鳴らすことを振鈴(しんれい)と言う。一方、一般家庭の仏壇でチーンと鳴らすのは「お鈴(おりん)」と呼ばれ、取っ手がなくお椀を伏せた形をしている。そして、歌舞伎の下座音楽に用いられ、巡礼の出入りや寂しい寺院の場面などに用いられている鉦(かね)は、「松虫(まつむし)」と呼ばれている。チンチーンと鳴る音がマツムシの鳴き声に似ているからであろう。形は仏壇の「お鈴(おりん)」を平たくした形で大小2つ鉦(かね)の組み合わせになっていて、大小の鐘をT字型の撞木で打つと、マツムシが鳴いているような音がすることからの「松虫」の名となったのだろう。

 さて、マツムシソウの花後の頭部は、この叩き鉦、すなわち歌舞伎の「松虫」に似た形をしており、マツムシの鳴く季節に咲くところからの連想でマツムシソウとなったのではないかと結論し、自らを納得せしめた。

 なお、マツムシソウの花言葉は「悲しみの花嫁」、「私はすべてを失った」であり、西欧では「恵まれぬ心」「未亡人」となっている。この花の色と草姿が洋の東西を問わず同じ発想を生むのであろうか。高原の草叢にひっそりと咲くマツムシソウが、寂しげになにかを訴えている風情にみえるのもそのためだろう。

6月 ハンゲショウ(半夏生)ドクダミ科

 日本の本州以南、朝鮮半島、中国、フィリピンなど、東アジアに分布し、日当たりの良い湿地に自生している。ドクダミ科の落葉性多年草で、太く長い地下茎で分布を拡げて群生する。
 草丈は1mほどに成長し、葉は卵形で互生する。夏に葉の付け根に白い穂状の花をつけるが、花の下の葉2~3枚の表面は白く変化し、虫を呼び寄せる花弁の役目をなしている。ドクダミの白い花も花弁ではなく、苞と呼ばれる葉を白い花弁状に変化させたものだ。となると、ハンゲショウは、虫を呼び寄せるために葉を白くしただけなので、進化の手抜きと思われる。しかし、花期が終わるとハンゲショウの白い葉は、緑の葉に戻る。葉を無駄にはせず、合理的とも言える。

 ところで、ハンゲショウの名の由来が曖昧だ。花の下にある2~3枚の葉の表面だけが白くなることから、半化粧の名がついたという説と、72候の「半夏生ず」の時期(夏至から11日目)に咲くので半夏生との説がある。

 だが、平安時代初期の918年に深江輔仁が著わした『本草和名』では、ハンゲショウの漢名である「三白草」の和名は、「加多之呂久佐(カタシログサ)」と記しているので、古名はカタシログサであり、故に半化粧の漢字が妥当と思われる。江戸末期の1806年に小野嵐山が著わした『本草綱目啓蒙』では、三白草はカタシログサ、オシロイカケ、ハゲソウ、ハンゲグサの名を挙げている。ハゲソウは禿げ草だろうか、ハンゲクサは半夏草であろうか?この時代では、72候の「半夏生ず」との混乱が起きているように思える。

 「半夏」とはサトイモ科のカラスビシャクの漢名で、この花が咲くまでに田植えを終えないと、秋の収穫が望めないので、「半夏生ず」の時期が農作業の重要な暦日として「半夏生」となった。このため、ドクダミ科のハンゲショウも半夏の頃(現代では7月2日頃)に咲くものと誤解されている。しかし、観察園ではハンゲショウは4月に湿地から出芽し、6月上旬には花が咲き葉が白くなる。この事実から考えると、半化粧が同音の半夏生にすり替わって理解されているのではないかと、筆者は考える。

6月 フシグロセンノウ(節黒仙翁)ナデシコ科

 中学校の林間学校で蓼科に行くとき、中央線の相模湖駅(当時は与瀬駅から名前を変更したばかり)を過ぎて標高を増し、山中に入ったころの、車窓から見える切り通しの崖に、なぜかポツンと1輪だけ、朱色の造花が草叢に無造作に刺してある・・・と見たのが、この花との最初の出会いであった。後年、フシグロセンノウという山草であることを知った。花の色は印鑑の朱肉や鳥居の朱色に似ており、日本の山野の景色の中では全くそぐわない色であり、好きにはなれなかった。

 この花は、葉が茎に着いた節のところが黒くなることからフシグロの名がつき、センノウは京都嵯峨野の仙翁寺で栽培され、仙翁花と呼ばれていた花(室町時代に寺の修行僧が中国から持ち帰ったナデシコ科の花で、三倍体のため種子は出来ず、株分けや挿穂で繁殖している希少な植物で、世間一般には広まっていない)に似ているところから、仙翁の名を借りてフシグロセンノウ(節黒仙翁)と命名されたようだ。

 同じ仲間には、北海道と軽井沢に分布するエゾセンノウ、阿蘇で見つかったマツモトセンノウ、北海道と埼玉・長野の山地に自生するエンビセンノウ等があるが、いずれも希少種である。その中でフシグロセンノウは、本州~九州の山地に広く分布している。だが、群生することはなく、どこでも周囲の景色に融け込まず、ひとりポツ然と咲いている。そんな花を『花の百名山』を著わした田中澄江は、雲取山をフシグロセンノウが咲く山として挙げた。同様に、日本植物友の会は『野の花 山の花 ウォッチング』で、雲取山に通じる後山林道の落葉樹林で見られる花としてこの花を記載した。現代ではフシグロセンノウは気になる花としての地位を得たように思われる。

 繰言になるが、筆者はこの柿色というべきか人参色のフシグロセンノウの花は好きではない。しかし来園者は、綺麗な花ね、素敵といった感嘆の声を上げる。ゼラニウムの花の色を見慣れた都会のヒトは、フシグロセンノウの花色に、山野草として格別の違和感を覚えないようだ。

6月 キツリフネ(黄釣船)ツリフネソウ科

 ツリフネソウ科ツリフネソウ属の植物は、北半球と熱帯地域に広く分布しており、全体の種数は800~1,000種あるとされ、未だに新発見が続いていると言われる。日本では、ツリフネソウ、キツリフネなどが、北海道~九州の低山から山地にかけて分布し、いずれも水分の多い湿地や排水溝など、湿った薄暗い場所に自生している。

 キツリフネは、ツリフネソウの自生環境と類似するため、日本においては両者がともに見られる場合が多い。しかし、ツリフネソウが花茎を葉の上に出して花を咲かせて群生しているのに対し、キツリフネは葉の下で花を咲かせており、草姿も細いことから、ツリフネソウの脇役としてツリフネソウの群生から少し離れた場所で、細々と自生している様子をみることが多い。

 ツリフネソウは、日本でこそキツリフネに対して優勢であるが、キツリフネは北海道~九州の日本だけでなく、朝鮮、中国、シベリア、ヨーロッパ、北アメリカなど、北半球の温帯に広く分布する成功者だ。その差は学名にも表れているように思える。
 ツリフネソウ Impatiens textori の属名のImpatiens はラテン語で「忍耐力のない」の意味で、実に触ると種子が弾けることからの命名であり、種小名のtextoriはシーボルトが植物採集のために日本に派遣した植物学者のCarl Julius Textorの名をつけたものである。一方、キツリフネ Impatiens noli-tangere の種小名noli-tangereは、「触るな!」の意味だ。これはイエスの遺体に油を塗ろうと墓を訪れた信者であるマグダラのマリアの前に、イエスが復活して姿を見せたので、マリアが思わず縋ろうと近づいた時に、イエスが「我に触れるな noli me tangere 我はまだ父のもとにのぼっていないのだから」と、マグダラのマリアを諭した言葉から採っている。この言葉はヨハネ福音書に書かれている有名な台詞であり、彼女は正教会・カトリック教会などでは聖女となっている。

 今春に種子を蒔いて愛培した結果、1m近くに成長し、6月半ばから花を沢山つけ始めた。か細く健気に葉の下で咲くイメージの花が消えて、雑草然とした姿になり、愛培した筆者としては失敗・落胆の感が強い。

5月 スイカズラ(吸い葛、忍冬) スイカズラ科

 スイカズラの漢字をネット検索すると、必ず「忍冬」の字が出てくる。しかし、これは冬でも葉が少し残っているところから名付けられた漢名であり、日本名はスイカズラなので、「吸い葛」が正しい。醍醐天皇の頃の918年に深江輔仁が書いた『本草和名』(中国の本草書に記載ある薬物の日本名を書いたもの)には、忍冬の和名は須比加都良、すなわち日本名はスヒカヅラと書かれている。日本名のスイカズラは、甘みの少ない時代に、子供達がこの花の蜜を吸って遊んだことからの名前のようだ。

 ネット検索すると、口裏を合わせたようにWikipediaを始めとして多数のサイトで「砂糖がない古い時代に、砂糖の代わりに使われた」との記載が目立つ。しかし、スイカズラの花の蜜の量はほんのり甘みが感じられる程度の量であり、砂糖代わりに使うには、この花を何十~何百も摘まねばならないであろう。この程度の花の蜜はツツジの花にもあるし、キイチゴほか甘い果実もある。イタヤカエデの樹液を煮詰めればかなりの量の甘味料が得られる。古い時代の人はハチミツを知らなかったであろうか?そんなことはあるまい。砂糖の代用の記述は誰かが思いつきで書いたものを、真偽を調べずに孫引きで記載したものと筆者は思う。

 砂糖の代用にはならなかったが、スイカズラは中国渡来の「本草書」に、忍冬は、利尿、健胃、解熱作用があるとされ、漢方薬としてもよく使われた。我慢・忍耐を信条とし、健康オタクであった徳川家康は、自ら薬草を育て薬の調合までしていたが、スイカズラの葉のお茶や、花を酒に漬け込んだ「忍冬酒」を愛飲していたという。その名残りであろうか、今でも浜松では忍冬茶・忍冬酒が生産販売されている。

 一方、アメリカでは日本からのスイカズラ(吸い葛)が異常繁殖し、有害植物として駆除の対象になっている。同様に日本から渡来したクズ(葛)も世界の侵略的外来種ワースト100に選ばれ、駆除の対象となっている。カズラ(葛)もクズ(葛)も、アメリカでは嫌われ者だ。

6月 カライトソウ(唐糸草) バラ科

 草丈は1m程度で、茎は上方でよく枝分かれし、その先端に花穂をつける。花穂は細長い円柱形で、紅紫色の多数の小花が密集して開花する。花弁は小さくて目立たず、代わりに紅紫色の長さ1㎝ほどの雄しべが多数突き出て目立ち、長さ10㎝ほどの花穂全体が、ネコの尻尾のように膨らみ、多数の花穂が垂れ下がって美しい。光に輝く唐糸(絹糸)のような、雄しべの光る群がりが綺麗な花であるが、一般的には栽培されておらず、花壇で見ることは滅多にない。観察園に訪れる来園者は異口同音に初めて見る花だと感心する。

 カライトソウは、岐阜、富山、石川、福井県にまたがる日本海側の豪雪地帯である両白山地と言われる山域の、亜高山帯の砂礫地、岸壁、草地などの、涼しくてあまり乾燥せず、かつ水はけのよい場所に生育する日本固有種である。東京の市街地のように、夏場に気温が高く地面が乾燥して高温になるか、根が蒸れてしまう地域では栽培が困難である。このことが花壇で見られない理由の一つであろう。愛培し苦労して育て上げた筆者は、心中で自分を褒めている。

 そして栽培されない理由のもう一つは、花の美しい日数が短くて、すぐにみすぼらしい姿になることであろう。長い円柱形の紅紫色の美しい花穂を形成しているのは、長い雄しべであるため、雨に当たるとペシャンコになって洗い髪状に垂れ下がり、また、開花して3~4日を経ると萎れて、白濁した茶色に変化し、使い古して汚くよごれて乱れたブラシ様になる。丸っこく長毛でモフモフのネコのスコティッシュ・フォールドにシャワーをかけて風呂浴びさせると、なんとも汚い乞食姿に豹変するのに似ている。美醜の差があまりにも激しい。

 見てはいけないものを見てしまう結果となり、苦労して育てても、最後には裏切られる。東京においては「花の命は短くて、苦しき世話のみ多かりき」であるがゆえに、園芸品種とはなりにくいのであろう。