11月 カジノキ(梶の木、構、古名タク)クワ科

 日本では中部地方南部以西の本州~沖縄に分布する落葉高木であるが、中国ほかアジア全体に見られる植物である。クワやコウゾの葉と酷似しており、若木では見分けが難しい。成長が早く、観察園に15㎝ほどの枝を挿し木したものが10年ほどで、高さ4m、幹回り45㎝の高木になった。昔からコウゾやヒメコウゾと間違われており、その結果、シーボルトはコウゾの学名にBroussonetia kazinokiと種名にカジノキとつけている。

 カジノキは、樹皮の繊維が強靭であるため、衣服や紙の材料として昔から使われており、メコン川流域の原産のようだが、民族の移動とともに移植され植え広がった樹木のようだ、フィジーほかオセアニア諸島では、樹皮を木槌で叩いて平たく伸ばし、薄い布を作っていた。現在では「タパ」と呼ばれる民族衣装に使われている。一方、中国では樹皮から細い繊維の糸を取り出し、織物を作っていた。七夕の織女が織っていたのはカジノキの繊維だ。そのため日本で江戸時代までは、願い事をカジノキの葉に書き記し、笹の枝に括り付けていた。

 調べていて、ここまでは自分が納得できたが、諏訪大社の神紋がなぜカジノキなのかの疑問が生じた。カジノキの古名は「タク」であるが、諏訪大社と関係の深い出雲市には多久町,多久谷町が存在している。もしかしたら古い時代に、出雲地方にタクの国が存在していたのではないかと想像した。大和族からの国譲りの要求に対する条件として出雲族の大国主命は高層で巨大な出雲大社の建造を条件としたが、大国主命の次男のタケミナカタトミノミコト(建御名方富命)は反対して戦い、敗れて諏訪地方に逃げた。しかし「タク」の国を懐かしみ、カジノキを神紋とし、高層の出雲大社を偲び、諏訪大社の御柱祭で大きな樹木を運ぶのも、その片鱗ではないかと想像が膨らんだ。

 市井の一布衣の老人に過ぎない筆者には、それ以上真実を見極める学問も財力もない。カジノキは、見かけは極めて普通の落葉樹であるが、背負っている歴史には、とてつもなく長く深い物語がありそうだ。

11月 サフラン(咱夫藍、蕃紅花) アヤメ科

 先日来園したあるご婦人は、「わァ~。秋に咲くクロッカスもあるのねェ~!!」と歓声をあげた。日本では、早春に黄色や濃紫色の花を咲かせるクロッカスはよく知られている。しかし同じクロッカス属の植物でありながら、10月下旬~11月に薄紫色の花を咲かせるサフランの花の実物はあまり見慣れていないようだ。

 クロッカス属の植物は、地中海地方、北アフリカ、中東といった乾燥地帯に約100種が自生している。そのうち秋咲きで、摘み取った花の中心から覗く雌しべの赤い部分を乾燥させ、イタリアのリゾット、スペインのパエリア、フランスのブイヤベースなど料理の風味や色付けの、香辛料として栽培されている栽培品種をサフランと呼んでいる。

 地中海の島で発掘された壁画によると、青銅器時代から栽培されたと考えられるが、雌しべの赤色の部分が長い個体を選別栽培してきた結果、現在のサフランは、種子のできない三倍体のクローン株となっている。故に、株数を増やすのも困難だが、1㎏の乾燥雌しべを得るには約17万個の花から手摘みで丁寧に雌しべを摘み取る必要がある。

 なお、雌しべの柱頭に近い先端部分に色と香りが濃縮し、下部の子房につながる花柱の部分は黄色味をおび、色と香りは薄い。ゆえに、赤色の部分のみを集めたイラン産最高級品のニガン等級品は、1gの乾燥品を集めるのに300個の花が必要とされ、スペインのクーペ(花柱部分を切り捨ての意味)等級品は5gで1万円と高価である。

 さて、日本におけるサフラン栽培は、香辛料としてではなく、生薬採取のためであった。当時、サフランは蕃紅花と呼ばれ、更年期障害や各種婦人病の妙薬として使用されていた。大磯町国府地区の添田辰五郎は、病気にかかり高価なサフランの服用が必要な母のため、明治19年(1886)にヨーロッパからサフランの球根を5個輸入し、独自に栽培開始。気候や土質が異なる日本において、10年の歳月をかけてサフランの栽培に目途をつけた。明治36年(1903)に、辰五郎から球根を譲り受けた吉良文平によって大分県竹田市へ伝わり、同地は名産地になった。

 しかし、竹田市では雨の多い日本の気候でサフランの球根を腐らせないために、5月に畑から掘りあげた球根を、倉庫できれいに棚に並べて保管し、朝晩の気温がぐんと下がる晩秋には低温多湿の雰囲気にして開花を促し、周囲を暗くして葉を成長させず、球根の養分を花に集中させる栽培法をとっている。このため、国産のサフランは雌しべが大きく、色調も鮮やかで、香味も優れており、今や品質では世界一といわれるようになった。花は室内で咲き、丁寧に赤い雌しべが採取され、花を摘み取られた球根は畑に植えられ、5月まで青い葉をみるだけとなる。花盛りのサフランは、こうして人目に触れない箱入り娘のような存在となり、サフランの花を知らない人が出てきたようだ。

10月 クスノキ クスノキ科

 クスノキは台湾、中国南東部、ベトナムといった暖地に自生し、それらの地域から日本に渡来した史前帰化植物と言われている。今では常緑高木のうちの1種類の樹木としか一般的には認識されていないが、明治時代は国運を左右する、大変重要な樹木であった。

 クスノキから水蒸気蒸留で防虫・防黴剤として樟脳が採れることは知られていたが、1870年にアメリカのハイアット兄弟が、樟脳からセルロイドを作ることに成功した。成形自由な材料なので、食器、ナイフの柄、万年筆、眼鏡フレーム、映画フィルムなどの材料として19世紀後半の工業製品に一大変革をおこし、膨大な需要が生じた。

 日清戦争後、1895年から台湾を領有した日本政府は、台湾に茂るクスノキを用いた樟脳の生産販売の専売制度を敷いた。世界の樟脳生産の80%を占め、政府の大きな財源となった。しかし三国干渉により日露戦争が不可避となったので、バルチック艦隊に対抗するため、最新鋭の戦艦12隻を一度に英国などに発注し、ロシアに戦勝した。その戦費は英国と米国からの借入金であったが、樟脳という担保の裏付けがあったから出来たことである。

 そして、第一次世界大戦の頃には、西欧に沢山自生するモミやトウヒなどのマツ科植物からとれる「松ヤニ」から、プラスチックを製造する技術が発明され、第二次世界大戦の頃には、石油からプラスチックを合成する技術が発明された(ゆえにプラスチックの日本語は「合成樹脂」となっている)。これらの技術により、セルロイド・樟脳の需要は激減し、国難を救ったクスノキの価値も忘れられていった。

 しかし、明治神宮の参拝殿の左右に植栽されているご神木は、クスノキであり、日本各地に残る日露戦争記念樹もまたクスノキである。JR青梅駅の近くにある永山公園には、日露戦争で戦死された兵士の魂を祀る「忠魂碑」があるが、そのすぐ後ろには、クスノキがなぜ自分がここに植えられたか、何も語らず、シレっとした姿で、現代の風に葉を揺らして我々を眺めている。

10月 エノキ(榎) アサ科

 北海道を除く日本全国の里地・里山に自生する落葉高木で、身近の山野でよく見られる樹木である。以前は近縁のムクノキとともに、ニレ科に分類されていたが、現在ではアサ科に分類されている。

 秋に橙褐色の果実がなり、ほんのり甘い。登呂遺跡からは種子が多量にでてきたので、古代人は食料にしていた可能性もある。近代においても砂糖が貴重であった時期は、子供達が口にして甘さを楽しんだ。同様に、野鳥の好物となっており、多くの野鳥が果実を啄みに訪れる。またエノキの葉は、ゴマダラチョウ、テングチョウ、ヒオドシチョウ、葉と材は、法隆寺の玉虫厨子で有名なタマムシなど、多くの昆虫類のエサとなっており、特に日本の国蝶であるオオムラサキの食樹としてよく知られている。そして、各地の多くの神社でご神木となっている。

 このように極めて身近な樹木であれば、地方名が多数あるのが一般的であるが、奇妙なことに、エノキは、地方独特の地方名がなく、日本全国で「エ」がつくか、または「エ」音が転訛したと思われる「ヨ」、「ユ」がつく地方名になっている。『日本植物方言集成』八坂書房によれば、「エノミ(青森、岩手、仙台、新潟、静岡、山口、大分)」、「エノミキ(八丈島、宮城、佐渡、長野、三重、高知、八女、熊本)」、「エノンノキ(出雲)」、あるいは「ユノキ(富山)」、「ユノミノキ(長野)」、「ヨノキ(岐阜、志賀、和歌山、鳥取、愛媛)」といった具合である。従って、エノキは「エの木」が語源であろうと筆者は考える。なぜ、全国的にこの名前が広がったのか、何かの意味をもつ、特別の木であったのだろう。

 エノキの漢字は日本では「榎」であるが、中国では「朴」であり、占うという意味がある。「榎」は日本で作られた国字である。近縁のムクノキは「椋」であるが、訓読みでは「クラ」とも読み、古語では「クラ」は「拠り所」の意味をもつ。

 筆者は、このことから、エノキもムクノキも中国・朝鮮では霊木的な存在であり、その思想が日本にも伝わり、神の居場所・神の依(よ)り所として崇められ、「依(エ)の木」と呼ばれたことが始原であろうと考える。それゆえ、村落の境界には道祖神が祀られ、エノキが植えられた。東海道の一里塚にも、旅人を守る樹木としてエノキが植えられた・・・と考えたい。多くの神社のご神木となっているのも、そのためだろう。

9月 オミナエシ(女郎花) オミナエシ科

 オミナエシは、沖縄を除く日本全土および中国~東シベリアにかけて分布している。日当たりのよい肥沃な草原に生育し、夏から秋にかけ、地表に広がる根生葉から1mほどの長い花茎をのばし、その先端に黄色い小花を平らな散房状に多数咲かせる。咲いているのが1株だけだとさほど目立つ花ではないが、多くの株がまとまって開花していると、光沢のある黄色い小花が秋の陽に輝いて美しい。

 しかし、秋の七草の一つとして、日本では古くから親しまれている草原植物であるにもかかわらず、オミナエシの名前の由来が明確ではない。牧野富太郎は、同属でよく似ていて白花のオトコエシ(男郎花)に対応して、優しい感じがするところからオミナエシ(女郎花)と名付けられたとし、「エシ」の意味は不明と素っ気ない説明をしている。

 このことから、「エシ」は「圧し(へし)」が変化したものであり、花の美しさは美女を圧倒する意味だとする説がある。だとすれば、地味な白花にオトコエシの名をつけるのは、筋が通らない。

 筆者はオミナエシはオミナメシ、オトコエシはオトコメシが変化したものと考える。則ち、中国の本草書ではオミナエシもオトコエシも「敗醤(はいしょう)」と呼ぶ。この属の植物が、腐った(敗)醤(ひしお)のような異臭を持つことからである。日本現存最古の薬物辞典(本草書)である深江輔仁著『本草和名』延喜18(918)年は、敗醬の和名はチメクサと記している。一方、和歌を詠む上流階級の人達は、敗醤では和歌にふさわしくないと見て、女郎花の漢字をあてたのではないか。だが、一般の農民などはチメクサのほか、分かりやすい名前として、オミナエシをボン(盆)バナ、アワ(粟)バナ、オミナメシ(女郎飯)、オトコエシをオトコメシ(男飯)と呼んでいたようだ。筆者はオミナメシ、オトコメシが変化してオミナエシ、オトコエシとなったと考える。  則ち、女性は黄色い粟の飯を食べ、農作業の労働の代償として、男性は白い米の飯を食べたということではないか。これ以上書くと、男尊女卑の思想ではないかと非難されそうなので、ここでやめておこう。