4月 アリアケスミレ(有明菫) スミレ科

 アリアケスミレは、葉や花の形などがスミレ(本スミレ、マンジュリカ)に非常に似ている。しかし、花の色のベースとなるのは白色で、白に少し紫の筋が入るものから、紫の筋の目立つもの、花弁そのものが紫を帯びるものなど変異が多い。この特徴が有明の空の色の変異に似ていると見ての名前となっている。

 本州から九州まで幅広い地域に分布し、水田の畔や畑などの耕作地の周辺や河川敷など、陽当たりが良くて湿ったところを好み、踏みつけにも耐えて繁茂する普通種と言える。

 観察園では、スミレ、アリアケを始めとしてアカネ、サクラ、ゲンジ、タカオなど約30種を植栽している。男性の来園者は、スミレ植栽コーナーを無視して通り過ぎるが、女性来園者は、必ず「ワァ、可愛い!」と小さな嬌声をあげ、立ち止まり花を見入る。その都度、男性たる筆者は「どこがぁ?」と問いたくなる。スミレは女性の母性本能を刺激するのだろうか。生まれて月日を経ていない新生児は、おかしくもないのに、時折素敵な笑い顔を見せる。いわゆる新生児微笑というやつだ。無力な自分を保護してくれるよう、笑顔で訴える本能がなせる技である。スミレも人の感情を刺激する「紫色」の花をつけ、小首をかしげたような、可憐な姿で咲いている。ヒトは、雑草に交じって咲くスミレを、雑草とともに無造作に抜き去ることをせず、残しておく気持ちになる。新生児微笑効果である。

 しかし、朔果が熟して割れると、種子は弾け飛ばされ、50㎝~3mほど遠くへ着地し、なおかつ種子にはエライオソームというアリが好む付着物がついていて、アリはこの物質に誘引され種子を巣に持ち帰る。エライオソームを食べた後は、種子は巣穴の近くに捨てられる。これにより種子は広く遠くに運ばれる。種子散布の巧妙な仕掛けである。

 さらに、種類が違うスミレの花粉でも厭わず、容易に交雑種を作ることができる。スミレは60ほどの基本種があるが、交雑種・変異種を含めると300種近くになると言われている。さらにさらに、昆虫の訪れが無くても、花が咲かないまま自家受精で種子を作る閉鎖花と呼ばれる仕掛けで、結実し繁茂することも当たり前に行われている。

 観察園のアリアケスミレは、市内の交通量の多い交差点の、道路の縁石と歩道の敷石との間に出来たわずかなすき間で繁茂し、その閉鎖花から出来た蒴果を摘み取ってきて播種したものだが、見事に目の前で花を咲かせている。こうした実態を、可憐で可愛く健気(けなげ)と見るか、かなり強か(したたか)な花と見るか、あなたはどちらでしょうか?

4月 カザグルマ(風車) キンポウゲ科

 秋田県以南の本州、四国、九州、朝鮮、中国の草地や日当たりのよい林縁に大きな群落をつくる落葉つる性木本。見た目は雑草然としたつる植物で、草むらに紛れて目立たない。しかし花が咲くと、泥中に咲くハスの花のように、草むらから突如、際立った美しい姿を見せる。そのため、花の時期でない時は、雑草と一緒に刈り取られ、花が咲くと掘り取られる悲しき宿命の花だ。それゆえ現在では環境省の準絶滅危惧種に指定されている。
 同じ仲間のテッセンは、中国原産でよく似ており、通常、花弁(花弁に見える萼片)6枚がテッセン、8枚がカザグルマと言われている。しかし、カザグルマは多様性の高い植物で、自生する地域により花色は白、淡紫色、紺、ピンクなどがあり、通常8枚の萼片は、6枚から10数枚の個体もあるようだ。

 江戸時代にシーボルトや採集家のR・フォーチュンによってカザグルマやテッセンが西欧に持ち出され、色々な園芸品種が作出された。それらの園芸品種は、クレマチスと呼ばれ、愛好家が多い。

 今春、園芸店から「武蔵野原産のカザグルマ」を購入し、観察園に植栽した。先日、白人の初老男性の来園者があり、カザグルマを見ると、達者な日本語で「このカザグルマはどこ産ですか?」と尋ねてきた。筆者は得意げに武蔵野産の原種と答えた。すると彼は「武蔵野のどこですか」と追尋してきた。ウッと筆者は答えに窮した。

 彼の質問は、要するに武蔵野台地のどの辺のものかであった。武蔵野市に長年在住の筆者は、無意識に武蔵野とは、武蔵野市、三鷹、小金井、小平、西東京あたりを武蔵野と認識していた。だが、武蔵野台地は多摩川、荒川に南北を挟まれ、東は渋谷・新宿を通る京浜東北線で、西は所沢や志木市、川越市を含む地域を意味していた。広い地域であるだけに、自生するカザグルマも武蔵野台地の場所によって色や形が異なる。アメリカ(Washinton DC )出身の彼はそのことを意識して、質問して来たのだった。そのようなことを知らずに、「武蔵野原産です」と説明してきた自分が、無性に恥ずかしくなった。

4月 ヤマシャクヤク(山芍薬) ボタン科

 ヤマシャクヤクは、北海道~九州の落葉広葉樹林の山に自生するシャクヤクの意味だ。古い時代の日本の植物学は、中国の薬物について書かれた「本草書」からの知識が基本となって発達した。故に、中国のシャクヤクに似た日本のシャクヤクは、ヤマシャクヤクの名がつけられた。カイコとともに渡来したマグワ(真桑)に対して、日本に自生するクワは山桑となり、製紙材料となる楮(コウゾに)似た日本の野生種は姫楮(ヒメコウゾ)の名がつけられた。

 さて、中国のシャクヤクは、東アジア北部(東シベリア、中国東北部、朝鮮半島)に自生し、日本での旧名はエビスクスリ(衣比須久須利)と呼ばれていた。これも中国での生薬名の和訳であろう。エビス(夷)とは、古代中国では東方の未開人を蔑んでつけた名前である。だが、古くからシャクヤクは、効能が高いクスリとしてみとめられていたのである。

 「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」の言葉は、美人の形容ではなく、薬の用法を意味する言葉だった。筋肉がこわばり気がいら立っている女性へはシャクヤクの根を、座り込んで何もしたく無い瘀血(おけつ)症の女性にはボタンの根を、ふらふら歩きの心身症の女性にはユリ根を・・という処方の分類の言葉だったのが、後世に都都逸で美人形容の言葉にすり替わった。

 唐代にはいると、ボタンやシャクヤクの美しさから園芸熱が高まり、色々な品種が作出された。シャクヤク(芍薬)の名のもとは、綽約(シャクヤク、高く秀でている)や婥約(シャクヤク、鮮やかに浮き立って美しい)という言葉の諧音(かいいん、同音異語)で、美しさと際立った薬効の両方の意味をもつ芍薬の名が生まれたと言われている。

 日本のヤマシャクヤクも、山中にあって際立って美しく、そのため掘り取られるなどして、今では環境省の絶滅危急種(VU)に指定されている。山中を歩き回ってこの花を鑑賞することが困難な高齢者のために、園芸店から取り寄せて、観察園に植栽した。しかし、カタクリ、シライトソウなどの山野草の草むらの中で、ヤマシャクヤクは際立って美しいので、周囲の花から浮いており、他の花は貧弱に見える。来園者はヤマシャクヤクを見ると、他の花には関心をみせず、素通りしてしまう。懸命に育てた山野草の全てを鑑賞して欲しい筆者にとっては悩みのタネになっている。

4月 セッコク(石斛、セキコク) ラン科

 なんだか難しい名前だが、これは洋ランでお馴染みの「デンドロビウム属」の中国語である「石斛属」から採った名前である。石斛とは、太い茎(バルブ)を、石のように硬い水瓶(斛)に見たててつけた名前だ。そしてデンドロビウムとは、ギリシャ語のデンドロ(樹木)とビウス(生活する)から出来た名前だ。

 セッコクは、本州中部以南から四国、九州及び韓国、中国に自生しており、樹上や岩上などに着生して生長する。樹木に「寄生」して生きているのではなく、本体を固定させるために単に樹皮や岩に根でしがみつき、水分や栄養は、霧や雨水から吸収している「着生蘭」の仲間だ。着生蘭と言えば、カトレア、バンダ、胡蝶蘭など、熱帯雨林や温暖な地域の高い山など、雨や霧が出やすい場所に生えている美しい蘭を思いつく。日本に自生する着生蘭のセッコクも、小さいながら白あるいは淡紅色の美しい花を咲かせる。

 東京オリンピックの頃から刊行された週刊誌の『アサヒグラフ』に掲載された、作曲家の團伊久磨の「パイプの煙」と題した随筆で、葉山の彼の自宅から続く林の高い枝先に、セッコクが自生しているのを見つけたことを自慢げに記している。羨ましく思い、逗子や葉山に遊びに出掛けた際には、少しの時間を見つけては林の中を歩き回り、セッコクを探したが、見つからなかった。だが、30年ほど前、妻の実家がある大分に行った時、臼杵市の山の中を歩いて見た。暖かい海からの水蒸気が上がってきて、小高い山の上の冷気と入り交じり霧が出やすい林で、アチコチの樹木の枝にセッコクが生えているのを見つけ、小躍りした。

 ここで採取した1株(茎が10本ほど)を武蔵野の自宅の樹木に縛り付け増殖に努めた。乾燥する市街地では増殖が上手くいかず、色々と工夫をしているうちに、なんとか増殖するコツを得た。増えた株の10本ほどを観察園に移植し、今では100本ほどの大株となり、見事な花を見せている。植物好きの人は、高尾山のある場所の高木の枝に生えているセッコクを見にわざわざ出かけるが、ここでは目の高さでピンク色の大株を観賞することができる。團伊久磨にみせかったなぁ。

4月 オキナグサ(翁草) キンポウゲ科

 オキナグサは、現在では環境省の「絶滅危惧Ⅱ類 (VU) 」(近い将来において野生での絶滅の危険性が高い種)に指定されているが、以前は日の当たる草原や牧場などでかなりよく見られた野草であった。しかし、草原は住宅地、ゴルフ場、観光地、別荘地などに開発されたこと、鹿による花の食害があることなどから、自生地が激減した。

 春4~5月に咲く花の姿は赤紫色で、当初は白毛に包まれ下を向いた地味で柔和な様相を呈している。しばらくは、恥ずかし気に下を向いているが、ある日突然に本性を剥きだしにしたように、毒々しい赤紫色の花となって、キッと顔をあげて我々を見つめる。妖艶な美女、否、美魔女の顔である。そしてエ~ッと驚いている数日後にはタンポポの綿毛の穂のような鬼女の姿に変化する。姿は美魔女→鬼女に変化したのに、名前が翁草になったのが解せない。

 『日本植物方言集成』八坂書房で調べると、昔は各地で見られた草だっただけに、地方名が300以上あった。オキナグサは江戸での名前であり、岩手ではウズ(爺)ノヒゲ、安芸ではジーガヒゲなど老爺の名前になっているが、ウバガシラ(松前)、カワラノオバサン(群馬勢多)、シラガババア(岩手江刺)、ヤチババ(山形東田川)など老女の名前がずっと多い。美魔女からは、老爺ではなく老婆になるのが自然に思える。

 そろそろ種子を採取し播種しようと思っていたやさき、観察園に来園した幼児が止める間もなく、オキナグサの茎を摘み、冠毛がついた種子を吹き飛ばしてしまった。種子は小さく軽いので風に乗り空高く消えた。

 そんな種子の旅立ちを、宮沢賢治は、オキナグサが高く高く飛んで変光星となったと『銀河鉄道の夜』の中の「おきなぐさ」と題した童話で書いている。荒井由美(松任谷由実)は、若くして亡くなった少年の命の旅立ちを、白い軌跡を残して高空に消えた「ひこうき雲」に例えて作詞作曲した。文才も詩心もない筆者は、空に消えてしまったオキナグサの種子が、どこか明るい草原に着地し、そこでブルドーザーに踏圧されることなく、鹿害に合うことなく、無事に繁殖することをただただ願うだけである。

4月 キブシ(木五倍子) キブシ科

 キブシは銀杏や山椒と同様に雌雄異株の落葉樹で、春に葉が伸びる前に淡黄色の花が、ブドウのようにつり下がって咲き良く目立つ。山地の日当たりに多く見られるが、花の時期以外は目立つ樹木ではない。また、キブシを漢字では木五倍子と書くが、知らないとキブシとは読めない。今では存在感の薄い灌木となっている。

 だが、昔の人にとっては身近で重要な植物だった。お化粧で歯を黒く染めるための鉄漿(お歯黒)の材料として、庶民は高価なフシ(五倍子)の代わりにキブシの果実から採れるタンニンを使ったのである。フシとは、ヌルデの葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生すると、虫こぶ(ゴール、gall)ができるが、この虫こぶのことを五倍子(ゴバイシ、フシ)という。この虫こぶにはタンニン(渋)を多く含むので、乾燥・粉砕して粉にしたものと、酢を入れた水の中で鉄を錆びさせて出来た赤水とを混ぜると、化学反応で黒い染料(タンニン酸第二鉄)となる。これを歯に塗って、歯の化粧に使った。虫こぶは、どのヌルデの木でも見つかるものではなかったので、高価であり、タンニンを多く含み身近で採れるキブシの果実が、庶民のお歯黒の材料として使われるようになった。

 この風習は、古墳から出土した人骨や埴輪でもお歯黒の跡が見られることから、かなり古い時代から明治の始めまで続いた風習で、外国人の眼には奇異で醜悪なものとして不評だった。そのためお歯黒禁止令まで出た。その途端虫歯や歯槽膿漏の患者が激増したので、禁止令は解除されたが、お歯黒を続ける人は少なくなり、この風習は次第に廃れ、キブシの木の存在感も薄れてしまった。

 だがこの風習は、現代でも中国雲南省の少数民族であるミャオ族、ヤオ族、ベトナムのヌン族、タイのアカ族など、多くの部族に残っている。中尾佐助氏が指摘した『照葉樹林文化』の担い手である中国江南の人達などが、お歯黒の風習をも日本にもたらしたのだろうか?

4月 ニワトコ(接骨木) レンプクソウ科

 筆者がニワトコという木を知ったのは、山菜について書かれた本だった。春に白い小さな花を咲かせる直前の蕾の姿は、ブロッコリーに酷似しており、それを天ぷらにして食べると美味しい(多食厳禁)こと、そして古い幹にはキクラゲがよくみられることを知った。玉川上水、千川上水の土手の大木の陰でひっそりと生えていて、蕾とキクラゲを時折採取しては味わった。ただそれだけの貧相な灌木でしかなかった。

 ニワトコの名前の由来を調べてみると、語源はミヤツコギ(宮仕う木)で、神官(宮つ子)が、布など貴重品を神に捧げる時、その品を木に挟み神前に奉納する際に使う霊木であったようだ。古語が残る八丈島では、ミヤツコギが訛化してミヤトコと呼んでいる。

 その後、ニワトコがアイヌでは神事の際に用いられ、病魔を避ける力があると見られ、魔よけに門前に立てられていることを知った。アイヌの人達にとって、アワやヒエが大切な主食の穀物であり、ニワトコが魔よけの霊木であった基層文化が、秩父、山梨、長野、群馬、伊豆地方に広がった御門棒(おっかどぼう)や、粟棒・稗棒(あーぼへーぼ)など、病魔を防ぎ豊作を願って小正月に門前に立てる飾り物の風習になっていることを知った。(千葉県の多くの地域でニワトコのことをアーボノキとかアーボと呼んでいる)。

 更に驚いたことに、中央アジアの民族であったケルト人の文化としてニワトコ(エルダー)が、人間界と魔界を繋ぐ霊木であり、その基層文化が根強く西欧に残ることだ。特にヨーロッパの外れの島国であるアイルランドでは顕著。ケルト人は文字をもたず、巨石文化(ストーンヘンジ)が遺跡として有名だが、アイヌも文字を持たず、ニワトコを霊木として崇めているという、共通点が見られる。更に日本にも環状列石が秋田、青森、北海道で200弱も存在しているが、この環状列石が縄文人の文化なのか、アイヌなのか筆者は知らない。

 だが、ニワトコは、隠れた魔力で世界を支配しているように思えてくる。日本の宝塚の歌劇で歌われる「スミレの花咲く頃」の歌は、フランスでの「白いリラが咲くとき」の替え歌であり、その元歌はドイツの「再び白いニワトコが咲いたら」である事実は、ニワトコが隠微な力を現代社会に対しても発揮しているように思えてくる。

4月 ヒトリシズカ(一人静) センリョウ科

 森林の中で朝日があたる程度の湿った日陰を好んで生育する。花は光沢のある4枚の葉の真ん中から1本の白いブラシを突き出しているような素朴な形だが、人目につかず、ひっそりと、しかし、凛として品よく咲いている。1本の茎からは主として1本の花穂しかつけないが、株立ちする植物なので、多くの花が咲きそろって咲いている。それなのに、なぜ「一人静」という名前がついたのだろう。ヒトリシズカの旧名はマユハキソウ(眉掃草)であったようだ。それがヒトリシズカとなったのは、下記のような経緯からと思われる。

 鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『吾妻鏡』では、義経の妾であった静御前の悲劇が記され、のちの室町時代になると世阿弥作と伝わる「二人静」の謡曲が有名となった。

 則ち、源義経は、頼朝の追手から逃げるため京から奈良の吉野山に逃げた。義経に従った妾の静は吉野山で義経とはぐれ、頼朝軍に捕らえられ、鎌倉に引かれて厳しい取り調べを受けた。頼朝の前で舞を舞う命令を受けて舞うが、敵である頼朝の前で、義経への思慕を歌い舞う静の姿に、多くの人は同情し大きな感動を与えた。

 そして室町時代の謡曲では、吉野山の勝手明神の神事に使う摘み草の菜摘女に静の霊がのり移り、菜摘女は神職の前で自分は静であると名乗った。神職は、では舞を見せよと言うと、菜摘女と、その背後に現れた静の霊とが一挙一頭足寸分違わぬ舞を舞うという内容で、この謡曲が有名となり、通常2本の花穂が立つツギネグサにフタリシズカの名が、1本の花穂が立つマユハキソウにヒトリシズカ名がついたのであろう。

 筆者の経験では、フタリシズカは人里に近い山野の、日の当たる場所でよく見かけるが、ヒトリシズカには滅多に出会うことがない。そんなヒトリシズカの花言葉は、「静謐(せいひつ)」であり、「隠れた美」となっており、静御前の気持ちや生きざまを表象しているように思われる。